悲しみのサルバドール

40日の滞在を予定してやってきた両親にとっては、かなりサンパウロの生活を満喫できたものと思います。

人種の坩堝と言われるサンパウロはニューヨークと1,2を争うほどの治安の悪さで有名です。
その為、どのアパートメント(マンション)にも門の入り口の横当たりに門番の家があります。

私の父は夕方になるとよくそこへ行って門番や通りすがりの人達とお喋りをしていました。
ポルトガル語なんて全く話せないのに、笑って頷いているだけで何か通じたのでしょうか…?
滞在中に両親は私達の為におはぎを作り、焼き鳥を焼き、私はもっぱら「美味しい、美味しい」と食べる人になっていた事を今では懐かしく思い出します。


1989〜90年の年末年始にかけて、両親を含む私達一向は一路サルバドールを目指して出発!




サンパウロから飛行機で約2時間。
植民地時代の古い建物がいたるところに見られるサルバドールは、ブラジルで最も早く開かれた都市の一つです。
ポルトガルによる植民地時代にアフリカから連れてこられた奴隷達の悲しい歴史を残す街でもあります。

廻りきれないほどの教会…坂道と石畳の町並み…
町全体がまるで絵画を見ているようでした。
下町と山の手がエレベーターで結ばれており、独特の風景を描き出しています。

昔奴隷達が暮らした窓のない穴倉のようなところを改造たレストランで、昼食を取りましたが、壁に刻まれた文字は昔のままです。
彼らの慟哭なのでしょうか…

大晦日から元旦にかけて、地元の人々がたいまつを掲げ、海に向かって歩いていきます。
行列の後に付いて行くと海辺で踊りが始まりました。
サンバのにぎやかな華やいだ音楽ではなく、神への祈りの踊りなのでしょうか? 
それは静かな中に強烈に訴えるものを感じた瞬間でした。
奴隷達の祖国を思い、自由を願う悲しみの音楽でした。

5日間程度の旅行でしたが、とても心に残る旅のひとつだったと言えるでしょう。
04/04/2001